ギャングギャング

 読む機会に恵まれて、高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」を読んだんだけど、けっこう面白かった。ところで、オレはこれをインテリのPOPなブローティガン遊びというか、ようするに方法論の小説だと勝手に思ってたんだけど、実は政治活動の文脈で読むべき熱い小説らしい(教わったんだけど)。って、皆知ってた?
 そういうふうに読むと、実は一気に腑に落ちるんだけど(少なくともオレはそうだった)、アマゾンレビューを見ると誰一人正しく読めてないと言っていいし、ようするに叙情性を褒めるのは半分は正しいけど、半分は間違っていると思う。というか、先にブローティガンを読んじゃった人間にとっては、その方法を採用する選択だけでは成立し得ないことが分かっちゃってるわけ。つまり!高橋源一郎はなぜその文体を選び取ったのか?ということがポイントなわけで、そのときその言葉の叙情性とかポップな固有名詞とか褒めてもぜんぜん意味ないわけ。
 で、もう少しちゃんと言うと「運動家になれなかった私」と「詩人になろうとする私」について書いた私小説だと思うんだよね。ギャング=本当の運動家、ね。そうやって考えていくと、ある意味でほとんどプロの運動家になりかけていた高橋源一郎にとって、その最中で自分の立ち位置を表現するとき、正視するやり方では書けなかったってことなんだよね。そうやって考えると、すごくよく分かる。分かりすぎてつまんないぐらいよく分かる。ただ分かっても、元ネタの分からない言葉遊びにあふれているし、単純に叙情的ないい文章で、いい物語だから楽しめるわけなんだけど。
 あと、ブローティガンの「愛のゆくえ」を下敷きにして詩人の学校のところを書いているというのも教えてもらった。柴田元幸バーセルミに似てるって思って本人にそう言ったら読んだことないって言われたらしいけど、ブローティガンはちゃんと意識していたらしい。あと、タイトルはさよならコロンバスとわれらのギャングからとっているし、変身の話が出てきたときに毒虫と乳房が出てくるし、あと優雅で感傷的な〜を書いたとか、とにかくフィリップ・ロスも意識してるらしいとか、いろんなことを教えてもらった。
 この作品をいい加減な言葉を使って褒めるのは、「僕は馬鹿です」と言ってるようなもんだと思うけど、とにかくどういう感想を持ったらいいか分からなかったので、いろいろすごく勉強になったが、これはどう考えてもズルい読書だと思った。

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

愛のゆくえ (ハヤカワepi文庫)

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さようなら コロンバス (集英社文庫)

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乳房になった男 (1978年) (集英社文庫)

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