まあよいよい

 そういえばなぜかMOTHER3に手を出していたのだった。ことの発端は最近あまりにも電車の中でニンテンドーDSをやっているオトナが多いということであった。もはや本を読むのが嫌いになっている私は「本を読め!」と言う代わりに、ゲームボーイアドバンスをやってみようと思ったのである。というのは、まず言おう、発売当時、電車の中でゲームボーイアドバンスをやるのはオトナとしては恥ずかしい行為であった。しかしDSはオトナ向け戦略で成功し、オトナ向けソフトもなじんだため、オトナが電車の中でDSをやっても恥ずかしくなくなった。しかし、実際にその大のオトナたちがやっているのは脳トレではなくどうみ見たってゼルダなんである。というか、さらに言えば、仮に、仮に本当に脳トレをやっていたとしても、それはもはやゼルダである、という考え方である。
 そこで、私はそんなやつらの前でゲームボーイアドバンスをやっている恥ずかしい様を見せつけようと思い立った。いいか、あなたたちは車内でゲームボーイアドバンスをやっているオレと同じだ。DSにしたってやっぱりちょっとオトナとして恥ずかしいじゃないか。DSだからってその恥ずかしさが軽減されるなんてモンじゃないだろう。
 とは言うものの、私は恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがないのであったし、そもそも今並べた御託こそオトナが通勤中にゲームをする恥ずかしさをごまかす屁理屈なのであった。
 さてMOTHER3である。もうこの年になると元ゲームっ子としても、テレビゲーム的なものはそんなに必要ではなく、懐古主義的な語りだけで十分で、その記憶を補完あるいは改竄するため以外には触手が伸びてこない。などと自信を持って言うことはできないのだけども(それなりにゲーム好きだしな)、しかしMOTHER3が出たときの絶対やらなくてはならないというオブセッションだけは消化しておかなければならないと思っていたのだ。これで胸のつかえが取れた。
 まわりくどいが、ようするにオレはMOTHER3をやってクリアしたよといいたいだけである。
 一部で不評だったらしいが、しかし、これはうーん擁護できねえ。思えば、2作目まではすごいことをやっていたのであった。MOTHERは1作目のどこで何をすればいいか分からなくなる置いてけぼり感といったら!その頂点のマジカント感といったら!そして、フライングマンである。ペットを殺すよりずっとずっと教訓になる。そして極めつけは、人間とはもともと能力上、不平等に生まれるものであって、決して誰もが平等に貢献できるシステムになっていないことをはっきりと教えるロイドという存在!あるいはMOTHER2躁うつ病っぽいママ!ダンジョン男という発想の疾走!そしてどせいさんフォントというのは飛躍すればアルフレッド・ベスターなどと同じであり、テクストの限界をフォントで破ったメルクマールであり、あるいはムーンライトという明らかなドラッグ・トリップを子ども向けゲームで展開するスレスレ感。これらのような文学の地平へと飛び立つ滑走路がないんである。いや正確に言えばあるのだが、圧倒的に足りないんである。
 空間軸から時間軸に目を向けたのは面白いと思ったのだが、1作目で空間によって表現された途方もない子どもとしての不安みたいなものに相当する何かがない。最後のほうでなされる物語のメタ化は意味が分からない。なんのためにそんな設定にしたのか。第2章くらいからラスボスは想像がつくのだが、その思い込みをひっくり返すのではなく、唐突な人物が登場するのでカタルシスがない(黒幕もなァ、明かし方に工夫があればいいのに)。
 確かに面白いところもあった。のっけから辛いストーリーでびっくりさせたところとか、背が高すぎるおっさんとか、お金がない世界にお金が導入されるとか。あと大人と子どもが組む気持ち悪さをもっとつっこめば面白い論点が生まれたはずなのに。
 ところで、話は飛ぶが、団地ともお12巻が発売されたので読んだ。私の中で、小田扉は最強の漫画家の一人で、というか、この「団地ともお」の何がすごいってさんざんやりつくされてきた漫画の歴史があるのに、既視感が全然ないところ。子ども世界の描写はめちゃくちゃ鋭くて巧いし、その描写で組み立てたリアリティを惜しげもなくぶっ壊して亜空間にしてしまうというやり方。
 ああもう眠い。書くの飽きてきた。ちなみにどういう話でまとめるつもりだったかというと、小田扉にMOTHERみたいなゲームつくってもらったら面白いだろうな、と。適度にアドベンチャーな感じがすごく向いていると思う。