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 嵐山光三郎が、待ち歩きのときは写真よりも下手でもいいから俳句をつくるほうがいい、という話を書いていて(散達のムック「東京がわかる300冊!」)、俳句をつくるのは記憶の中で写真を撮るのと一緒とか書いているんだけど、すごく感銘を受けた。感銘を受けることがないので、ふさわしそうなところでこの言葉を使ってみた。これはね、たぶんやらないけどやったほうがいいことのひとつ。私は人生の中で「退屈したことがない」。というわけで一人でいるのが好きなのだ(別に誰かと会う必要がないからだ)。で、だんだんいろんなことを経験していくといずれ退屈してしまうのかもしれない、という漠然とした不安めいたものを抱いていた。しかし、大丈夫そうだ。学生のときとは比べ物にならないスピードで、趣味や興味が増えている。この河原で石を積見続けるような仕事さえどうにかなれば完璧なのだが。
 「当たってそうで(当たっているのかもしれないけど)全然違う」というコトがある。たとえば、「アメリカ文学をよく読む」という若者に出会って、何が好きなの?と聞いたら、「サリンジャー」って言われたような感じ。全然例が分かりやすくないんだけど、本題は「峯田和伸」である。当たってそうだけど、僕はこの字を見ただけでなぜか拒否反応なのである。僕がこの人のことで知っていることといえば、銀杏BOYZ(つづりあってる?)とかいう名前で音楽をやっているらしいことと、なんか本書いたりしているらしいことと、サブカル界からの書き手の一人らしいことぐらい。でね、超バカ男子高校生じゃなくて、微妙にバカ男子高校生とかがはまっちゃいそうな空気が嫌なの。書いているもの一切読んだことないから、読んだら好みが380度転換するかもしれないけど(わざとですよ)、みうらじゅん大槻ケンヂよりも若いくせに文化人ぶってそうで、ていうか今書いたの全部妄想とオレの一方的な思い込みによる的外れな中傷なんだけど、唯一確信を持って言えるのは「峯田」の「峯」な、オレの中の「ミネ」は「峰」で間に合ってて、「峯」っていう字が気持ち悪いってこと。たぶん、この「峯」問題のせいで、彼はオレに意味もなく嫌われてると思う。あれ?なんでこんなこと書いたんだっけ?・・・ていうか、なんでこう言いたいことを表す言葉や表現がまったく出てこないんだろう。出てきてたら、もっと今の話をやや知的風味にして、意味ありげに仕上げられたはずなのに。あーイライラ。