フォー・アンバサダー

 自分は、1しか知らないことを10知っているかのように語ることへの抵抗感を人一倍強く持っている一方で、1しか知らないことを3知っているかのように語ることへの抵抗感があまりない。抵抗感がないというのは嘘で、あとで自己嫌悪に陥るのだが。
 福満しげゆきの新刊が出ていることを昨日教えてもらったので買って読んだ。面白すぐる。僕が絶賛しているのが「僕の小規模な失敗」なのだが、その中でも特にすごいなと思ったのが、ああページ数を書こうと思ったらなんで見当たらないんだ、まいいや、後半くらいでコマ割が3段になっていてその3段の下のほうへ向かうに連れて異常にコマが分割されていくページがあったはずだ(いやお得意のでっち上げかもしれない)。思うに、人間が死にたい気持ちになるときって、全体を描いて、仮にその半分くらいが「死にたい気持ち」だとするとそれを切り離してそんなものがなかったかのように自分に言い聞かせるのだけど、残ったもう半分の「まあ生きててもいいやという気持ち」のうちの半分がまたすぐに「死にたい気持ち」になって、またそれを切り離すと4分の1になった「まあ生きててもいいやという気持ち」の半分がすぐに「死にたい気持ち」に変わって、と延々と終わらなくなる。このとき、アキレスが亀に追いつけないみたいに、全体が「死にたい気持ち」に変わることは絶対にない。というモデルを考え付いたのだが(ちなみに村上春樹の描写からこのモデルを思いついている。というのはでっち上げ)、こじつけて言うと、まさにあのコマ割は死にたい気持ちが増幅していく状態をうまく表現しているような気がして、というかあのページを見るとものすごく不安になれるヨ!
 手塚治虫「上へ下へのジレッタ」と「人間ども集まれ!」を読んで、ものすごく面白いのだけども、この人はラストが唐突なことが多いなと思う。「奇子」なんかもそうだ(でも、この作品のラストは一応着地していると思う)。ところで、「人間ども集まれ!」は「山椒魚戦争」をヒントにしているのではないかと読んだときに思ったのだが、そもそも「山椒魚戦争」のラストがものすごく投げやりなんだけども、あのラストの投げやりっぷりはある意味芸になっているけど、手塚治虫の場合は消化不良になる。