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 ブログってニュース見てコメントするものでもあったような気がするが、ニュースを見てコメントすると自分の立場を考えなくてはならず、つまり思想だとかが否応なく立ち現れる。そうすると、それらの土台にある連続的な自分の人生というものを振り返ることが不可避に求められ、確実に死にたくなるので良くないと思う。面白い本を読んで面白いと叫ぶことは、むしろ非連続的な人生の中にあることのように思う。
 例えば、こないだイエメンのシバームの砂漠のマンハッタンが崩れたとかいうニュースを見て反応してしまったのだが、それは今オレがイエメンに興味を持っているせいではないのだった。ところが、今手塚治虫が面白いということは今オレが手塚治虫に興味を持っているせいだけなのである。これらは違う。屁理屈だと思うか?よく分からないけど、オレには違うように思われる。その理由はおそらく世間で起こっているニュースはオレが選び取ったものではないからだ。もちろんニュースをクリップする人の取捨選択する価値観は混じってしまうのだけど、そのクリッピングを気分のせいだけにすることはできない。完全に気分のせいにできれば、オレの人生は関係ない。
 ・・・ダメだ、書いていれば落としどころが見つかると思ったが、何を言っているか全然分からない。この屁理屈だと「新刊」の説明がつかない。ただオレは新刊を新刊だと思っていない。新刊を見つけることと、既刊を見つけることは同じだ。ところで、読みもしない新刊リストをずらずら書いて、読んでない本にもコメントする人が多いが、もちろんそれはニュースにコメントするのと同じことであって、オレが今そんなことを始めれば死にたくなるだろう。なんにせよ、オレは死ねばいいのに。
 ところで、かつて思考の過程のメモ帳を公開することに疑問を覚えることもあったが、不明な人間とコミュニケーションを取らなければ、おそらくは学生時代の物思いとラウンジの無駄話とそう変わらない。それでいいのだ。
 どうでもいいけど中原昌也作業日誌を読んでいて、ここに書かれた文章群を反面教師ではなく教師として受け止めることで、少し前向きな気持ちになった。少し生きる希望が沸く。これは本当に鬱の人の日誌だろうか?
 そんでもって、ここで新刊の話をするのだ。名盤鑑定百科のバッハが出た!!!モーツァルトなんかいらんわい、バッハを出せと思っていたら出たじゃないか。とりあえず、これだけで死にたくなくなる。
 ところで、これを読んでいる関係者や親戚の人たちへ。大丈夫、僕は元気です。