「痛飲」という言葉を使いたい

 怒られることが減っていくと、人間はどんどん傲慢になっていくのだろう。自分は一生傲慢にならない、と昔は、学生の頃は、思っていたのだが、たぶん違うと思う。
 私は小説の感想が書けない。書けないのだ。言えない。それがずっとコンプレックスなんである。面白いか、面白くないか、うまいか、うまくないか、は言えるだろうけど、それが私にとってなんであるかを書くことができないのだ。
 かつて、ワードで書いて、何度か見返して、手を入れて、それをブログにアップしていたことがあった。修飾語の順番とかもいちいち気にして、あるいは、割とあっさりと文章を削ることもあった。そうしないと文章がよくならないのは分かっているのだが、なかなかできないことだ、と今思う。しかし、本当に大事なのは、そういうことなのだ。正しい思考というのは、その過程のすべてを書くことではないのだった。「言わない」ことが既に重要な判断を含んでいる。今その真逆のことをして、いろいろ後悔するような失言がいっぱいある。反射的に言葉を返すときでも、「言わない」という判断をしたりしなかったり、しかもそれを分からないようにしなくてはならないのだった。爪先立ちのように。
 少しずつリハビリをしていきたい。と、ふと思った。